英国軍を含めて、当時の世界の正規な軍隊では、歩兵が密集して横隊陣形を組んで攻撃前進するというのが普通のスタイルであった。それに対してボーア軍の主体は民兵部隊で特定の編制をもたず、連装式ライフル銃を装備した騎乗歩兵が主体であった。特定の陣形を組まずに分散して展開し、敵に近づくと馬を降りて、ブッシュや地形の起伏を巧みに利用して身を隠し命中精度の高い射撃を行なったのである。 12月11日のマゲルスフォンテーンの戦いでは、ポール・サンフォード・メシュエン男爵(メシュエン3世)が指揮する14000人の英国軍が、キンバリーを攻略するために用意された。ボーア軍指揮官であったデ・ラ・レイ(Koos de la Rey)とクロンジェ(Piet Cronje)は、英国軍の型にはまった作戦行動を逆手に取り、軍事教則にとらわれない場所に塹壕を掘り、射手(ライフルマン)を配置する作戦を実行した。これが図に当たり、キンバリー、そしてマフェキングを救出するはずだった英国軍は死者120人、株 690人を出す壊滅的な打撃を受けた。 しかし、暗黒の株 の最悪の日は、12月15日のコレンゾーの戦いである。 レディスミス救出のためにツゲラ(Tugela)川を渡ろうとしたレドバース・ブラー(Redvers Buller)の指揮する21000人の英国軍が、ルイス・ボータ(ボーサ)指揮する8000人のトランスヴァール共和国軍に待ち伏せさせれた。砲撃と正確なライフル射撃の組合せにより、ボーア軍は川を渡ろうとした全ての英国軍を撃退した。ボーア軍の犠牲者40人に対して英国軍は1127人の犠牲者を出し、更に悪いことには退却の際に放置した大砲10門を鹵獲される体たらくであった。 更に英国軍は、レディスミスを攻略するためのスピオン・コップ(Spion Kop)の戦い(1900年1月19日から24日)で再び破れ、ビューラーは再度コレンゾーのツゲラ川西側を渡ろうとして、ボータ率いるボーア軍との激戦の末、1000人の犠牲者を出した(この時のボーア軍側の犠牲者は約300人)。ビューラーは2月5日に、Val Krantzで再びボータの軍を攻撃して、今度も敗北する。 1900年2月14日に増援が到着するまで、ロバーツ卿指揮下の英国軍が駐屯軍を救い出すための反攻を開始することはできなかった。最終的にキンバリーは、2月15日にジョン・フレンチ将軍の騎兵部隊によって解放された。 パールデベルグ(Paardeberg)の戦い(1900年2月18日から27日)で、ロバーツ卿はついにボーア軍を打ち破り、クロンジェ将軍と4000人の兵士を捕虜とした。これによりボーア軍は弱体化し、やっとのことで英国軍はレディスミス開放へと駒を進めることが可能となった。 1900年5月18日のマフェキング資産運用 は、イギリス全土に熱狂的な祝賀を引き起こした(このお祭り騒ぎを表現するためにマフェック(maffic)という単語が作られたほど)。英国は2つの共和国に進軍し、3月13日にオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンを、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアを占領した。 ほとんどの英国民は2つの首都占領によって、ほどなく終戦に至るだろうと考えていた。しかし、ボーア軍は新たな拠点Kroonstadで会合し、英国の供給網および通信網を寸断するゲリラ戦を立案した。 この新たな方針による最初の戦果は、3月31日、クリスチャン・デ・ウェット(Christian De Wet)が指揮する1500人のボーア軍がSanna's Post(ブルームフォンテーンの東23マイルにある給水設備)において、英国軍が厳重に警護するキャラバンを待ち伏せし、155人の犠牲者、428人の捕虜、7丁の銃、117台のワゴンを捕獲したものであった。 最後の“フォーマルな”戦いは、ロバーツ卿がプレトリア近郊でボーア軍野戦兵の残党を攻撃した6月11日から12日のダイアモンド・ヒル(Diamond Hill)の戦いであった。ロバーツ卿がダイアモンド・ヒルからのボーア軍の排除に成功したにもかかわらず、ボーア軍の指揮官ボータはそれを敗北とみなさなかった、なぜならば、ボーア軍の犠牲者が約50人であったのに対し英国軍に162人の犠牲者を出させたからである。 こうして、“フォーマルな”戦争は終わりを告げ、戦争は新たなステージに移ることとなった。 1900年6月ごろより、英軍司令官のホレイショ・キッチナーは、ゲリラとなったボーア軍支配地域で強制収容所(矯正キャンプ)戦略を展開しはじめる。これによって12万人のボーア人が強制収容所に入れられ、さらに焦土作戦を敢行。広大な農地と農家が焼き払らわれた。この収容所では2万人が死亡したとされる。 英国は1900年9月までにトランスヴァール北部を除く両方の共和国を管理していた。しかし、彼らは分隊が物理的に存在する間を制御するのみであった。分隊が町または地区を去るとすぐに、その領域での英国の制御は消えて行った。250000人の英国軍兵士では2つの個人向け国債 が有する巨大な領域を効果的に制御するのは不可能であった。英国軍の分隊同士に巨大な距離があるため、ボーア軍の特別攻撃隊(コマンド)はかなり自由に動き回ることができた。ボーア人指揮官も、ゲリラ戦のスタイルを採用することに決めた。 特別攻撃隊は、いつでも英国人に対し攻撃してよいとの命令を与えられており、各人の出身地区に派遣された。彼らの戦略は、敵に可能なかぎりの損害を与え、敵の増援が到着する前に移動するというものであった。西トランスヴァールのボーア軍特別攻撃隊は、1901年9月以後非常に活発に活動した。 いくつかの重要な戦いが1901年9月から1902年3月の間に起こった。 1901年9月30日、Moedwilで、そして10月24日、ドリエフォンテーン(Driefontein)で、デ・ラ・レイ将軍の軍は英軍を攻撃するが、強い抵抗に遭い、退却を余儀なくされた。 1902年2月には、次の大きな戦いが起こった。 2月25日にデ・ラ・レイが、Wolmaranstadの近くのYsterspruitで英軍を襲撃したのである。 デ・ラ・レイは敵の分隊を捕虜とし、彼の率いる部隊が相当の長期間にわたって活動できるだけの大量の弾薬を鹵獲することに成功した。 デ・ラ・レイのボーア軍は、メシューエン卿(Lord Methuen)に率いられた英国軍をVryburgからKlerksdorpまで追跡した。1902年3月7日の朝、ボーア軍はTweeboschで移動しているメシュエンの後衛を攻撃した。これにより英軍は混乱に陥り、メシュエンはipo しボーア軍の捕虜となった。Tweeboschの戦いは、デ・ラ・レイの勝利のうちの1つであったが、ボーア軍のこの勝利は、英軍のより強い反応を引き出すこととなってしまった。 1902年3月の後半には、英軍の大規模な増援が西トランスヴァールに送られた。英国軍が待ちに待った機会は1902年4月11日、Rooiwalで訪れた。ここでGensの軍と合流したのである。Grenfell、Kekewich、Von Donopは、ケンプ将軍の軍と接触した。 英軍兵士は山の側に配置され、ボーア軍の騎馬攻撃を十分な距離を持って迎撃し、存分に打ち倒した。これは、西トランスバール戦争、更にはアングロ・ボーア戦争の最後の大きな戦闘であった。 最後のボーア人が1902年5月に降伏し、同月、フェリーニヒング(Vereeniging)で条約が締結されたことによってボーア戦争は終戦を迎えた。これにより英国はトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合したが、英国軍が大損害によって疲弊したことや非人道的ともいえる収容所戦略、焦土作戦などによって国際的な批判をあびるなど、払った犠牲は小さくなかった。 また、英国はボーア戦争に大量の人員・物資を裂かざるを得ない状況になったことが影響し、義和団事件以降、満州