なお、西太后は北京陥落前に貧しい庶民に扮して脱出し、途中山西省大同などに寄りつつ10月西安に辿り着いた。彼女はアロー戦争の時にも、熱河に逃げているので生涯で二度も都落ちをしたことになる。 都落ちに際しては甥である光緒帝も同行させたが、その愛妃珍妃については宦官に命じて紫禁城寧寿宮裏にある井戸に落とし殺害させている。光緒帝を同行させたのは北京に残しておくことで列強を後ろ盾にした皇帝親政が復活する可能性を彼女が恐れたためであり、珍妃の殺害を命じたのは、彼女が光緒帝の寵愛を独占していたことや、若き日の西太后に似ており後々第2の西太后となることを危惧したことが原因であったと言われる。なお珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔ったのは日本軍であった。 連合軍の北京占領はおよそ一年続いたが、それを嫌って西太后は帰ろうとしなかった。一年ほどの西安滞在後、1902年1月鉄道を利用して帰京した。この時初めて彼女は鉄道に乗ったのだと言われている。下に掲げる「東南互保」の図に西太后・光緒帝の逃走と帰還の経路を載せる。 清朝の宣戦布告は、清朝内に在住する外国人及び中国人クリスチャンの日経225 を意味するも同然であった。特に北京にいた外国公使たちと中国人クリスチャンにとっては切迫した事態を招来した。当時紫禁城東南にある東交民巷というエリアに設けられていた公使館区域には、およそ外国人925名、中国人クリスチャンが3000名ほどの老若男女が逃げ込んでいた。しかし各国公使館の護衛兵と義勇兵は合わせても481名に過ぎなかったという。 6月19日に24時間以内の国外退去命令が伝えられ、翌日から早速攻撃が開始された。以後八ヶ国連合軍が北京を占領する8月14日までのおよそ二ヶ月弱、籠城を余儀なくされるのである。ちなみに籠城した人の中には、中国研究者として名高いペリオや海関総税務司として長年中国に滞在していたロバート・ハート、G.E.モリソン(G.E.Morrison)、服部宇之吉、狩野直喜、古城貞吉といった有名人も含まれていた。 この籠城にあって日本人柴五郎の存在は大きく、籠城成功に多大な寄与をしたと言われる。柴五郎は当時砲兵中佐の階級にあり、北京公使館付武官として清朝に赴任していた。籠城組は各国の寄り合い所帯であったため、まず意思疎通が大きな問題となったが、英語・フランス語・中国語と数ヶ国語に精通する柴中佐はよく間に立って相互理解に大きな役割を果たした。またこの籠城組の全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、籠城戦に当たって実質総指揮を担ったのは柴五郎であり(各国中で最先任の士官だったから)、解放後日本人からだけでなく欧米人からも多くの賛辞が寄せられている。なお柴五郎は、明治期の政治小説『佳人之奇遇』で有名な東海散士こと柴四郎の弟にあたる。 またこの北京籠城を中国人対外国人という単純な図式で捉えることはできないであろう。上で触れているように公使館区域には中国人クリスチャンも多く逃げ込んできており、彼らが籠城の上で多くの重要な役割を果たしたことは否定できない。彼らは戦闘は無論、見張りや防衛工事、消火活動、負傷者の救護、外(連合軍)との秘密の連絡をこなし、柴五郎も「耶蘇教民がいてわれわれを助けなかったならば、われわれ小数の兵にては、とうてい粛親王府は保てなかったかと思われます」、「無事にあの任務を果たせたのも信用し合っていた多くの中国人のお陰でした。そのことを明らかにすると、彼らは漢奸として、不幸な目にあうので、当時は報告しませんでした」と回顧している。すなわち日本人や欧米人、中国人が団結し、大きな軋轢がなかったことこそが籠城を支えた、少なくとも内からの瓦解を防いだと言っても過言ではない。 義和団の乱時の東交民巷 2ヶ月弱の防衛線の変化も示すしかし籠城を成功させた最も大きな理由は、清朝の不徹底な交戦姿勢にあった。西太后の命により「FX 初心者 」したものの、当初から列強に勝利する確信は清朝側に無かった。少なくとも栄禄ら戦争消極派はそう考えていた。したがって敗戦後の連合軍の報復を考慮したとき、公使館に立てこもる人々を虐殺することに躊躇を覚えていたのである。柴五郎らもその辺の温度差を敏感に感じ取っており、柴は董福祥の甘軍は真剣に包囲殲滅を目指しているが、栄禄直轄の部隊は銃撃するものの突撃などは少なかったと解放後に述べている。 右略図にあるように、防衛線は粛親王府やフランス公使館方面が徐々に後退しているものの、各国公使の家族が避難していたイギリス公使館側の防衛戦にはほとんど変化がない。柴同様籠城していた西徳二郎公使が「清国政府としてはそれまでの決心がない」というように、清朝側も公使団の扱いに困惑し、非情な決断をしかねたという背景が二ヶ月の籠城戦にはあった。あるいは清朝内の徹底抗戦派と和平派の綱引きの間に公使館は置かれていたといえる。近年の研究には、公使館の人々を人質として生かし、列強との外交交渉を有利に運ぶ材料として清朝が考えていたという主張をするものもある。 清朝軍によって襲撃・先物取引 を仕掛けられることはあったものの、時折休戦が差し挟まれ、その間公使団と清朝とは話し合いをもったため休息することが可能であった。特に7月17日以降から北京陥落の数日前までは比較的穏やかな休戦状態が維持継続され、尽きかけた食料・弾薬を調達することもできた。8月11日から14日までは再び清朝軍の攻勢が強まったが、8月14日の午後ついに援軍が来て2ヶ月弱の籠城戦は終わりをつげた。 この籠城戦において、どの国も犠牲者を出した。籠城を余儀なくされた外国人は925名に上るが、戦死者は20名ほどであった。日本人は攻撃の激しかった粛親王府防衛を受け持っていたため、各国の中で最も死者率が高かった。中国人クリスチャンは18名が亡くなっている。 東南互保形勢図と西太后蒙塵行時計の先物取引 をやや戻す。西太后が「宣戦布告」の上諭を出して列強への態度を明確化した頃、両江総督劉坤一や湖広総督張之洞、両広総督李鴻章ら地方の有力官僚らは、この上諭を偽詔とした上で従わない旨宣言し、そして義和団の鎮圧に動いた。また列強各国領事と「東南互保」という了解を結び、義和団の騒擾を中国北部に限定するようし向けた。具体的には、盛宣懐や張謇が地方大官と各国領事の間を奔走し、「保護南省商教章程」9ヶ条と「保護上海租界城廂章程」10ヶ条を結び、外国人の生命及び財産を列強が進攻しない限り保護することを確約した。 この「条款」は中国東南に位置する地方の総督や巡撫といった大官と列強との利害が一致したため成立した。 いわば、清朝の地方の大官僚たちが結託して地方の利害を優先させ、義和団の影響が及ばないよう先手をうったといえる。 これは明らかに西太后の命に背くものであったため、剛毅らは弾劾上奏を行ったが西太后は特段処分を下さなかった。それは西太后の保険であったためである。つまり列強との戦争の雲行きが怪しくなった場合に備え、「東南互保」を暗黙裡に認め、敗戦の総責任を負うことを求められないようにした政治的駆引きの一つであった。実際後述するように西太后は義和団の乱に関して何ら責任追及を受けていない。 開戦前の大韓帝国では、日本派とロシア派での政争が継続していたが、日本の戦況優勢を見て、東学党の系列から一進会が1904年に設立され、大衆層での親日的独立運動から、日本の支援を受けた合邦運動へ発展した。ただし当初の一進会の党是は韓国の自主独立であった。 日露戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善し、それぞれ日露協約、英露協商を締結した。既に締結されていた英仏協商と併せて、欧州情勢は日露戦争以前の英・露仏・独墺伊の三勢力が鼎立していた状況から、英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟の対立へと向かった。こうしてイギリスは仮想敵国をロシアからドイツに切り替え、ドイツはイギリスとの建艦競争を拡大してゆく。 ポーツマスにおける日露両政府代表団アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となった。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図したが、結局上手くいかず、対日感情が悪化する。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となった。 当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞した。 日露戦争の戦場であった満州(東三省・現在の中国東北部)は清朝の主権下にあった。満州族による王朝である清は建国以来、父祖の地である満洲には漢民族を入れないという封禁政策を取り、中国内地のような目の細かい行政制度も採用しなかった。開発も最南部の遼東・遼西を除き進んでおらず、こうしたことも原因となって19世紀末のロシアの進出に対して対応が遅れ、東清鉄道やハルピンを始めとする植民都市の建設まで許すこととなった。さらに義和団の乱の混乱の中で満洲は完全にロシアに制圧された。1901年の北京議定書締結後もロシアの満洲占拠が続いたために、張之洞や袁世凱は東三省の行政体制を内地と同一とするなどの統治強化を主張した。しかし清朝の対応は遅れ、そうしているうちに日露両国が開戦し、自国の領土で他国同士が戦うという事態となった。 終戦後は、日本は当初唱えていた満洲に於ける列国の機会均等の原則を翻し、日露が共同して利権を分け合うことを画策した。こうした状況に危機感をつのらせた清朝は直隷・山東からの漢民族の移民を奨励して人口密度の向上に努め、終戦の翌々年の1907年には内地と同じ「省・府・県」による行政制度を確立した。ある推計によると、1880年から1910年にかけて、東三省の人口は743万4千人から1783万6千人まで膨れ上がっている。[5]さらに同年には袁世凱の北洋軍の一部が満洲に駐留し、警察力・防衛力を増強するとともに、日露の行動への歯止めをかけた。また、日露の持つ利権に対しては、アメリカ資本を導入して相互の勢力を牽制させることで対抗を図ったが、袁世凱の失脚や日本側の工作もあり、うまくいかなかった。また、1917年のロシア帝国崩壊後は日本が一手に利権の扶植に走り、ついに1932年には自身の傀儡国家である満州国を建国した。太平洋戦争で日本が敗れて撤退すると、代わって進駐したソ連が満洲侵略に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。中華人民共和国が中国東北部を完全に掌握したのは1955年のことであり、日露戦争から50年後のことであった。